砕ける誇り


 彼らの村――村というよりも、家が十件かそこら集まったくらいのものだった――に着くと、さっそくカブキのための宴が催された。
 男たちは「おう、鍋じゃ鍋じゃ」「おう、薪を持ってこい、薪を」などと言いながらあちらをこちらへと慌しく走り回り、女たちは「あんた、菜っ葉採ってきな」などと夫を顎で使いながら包丁を振るっている。
 亜沙も何をしているのか、嬉しそうにちょこちょことあちこちを走り回っている。それもそのはずか、カブキが通りかからなければ今頃は魔化魍の腹に収まっていた身なのだ。生きることの楽しさをかみ締めているのだろう。
 見る見るうちに村の中ほどの広場にいくつもの焚き火が炊かれ、その上に大きな鍋がかけられた。そこになみなみと水が張られ、醤油やら味噌やらが適当に流し込まれる。それが沸く頃には女たちが大きな笊に載せた野菜や魚を持ち寄って、どぼんどぼんと投げ込んでいった。
「おいおい、やたらと大雑把だな……」
 のんびりとその作業を見ていたカブキがつぶやいた。それがたくましい年増の耳に届いたらしく、のしのしと歩み寄ってくる。
「なんのなんの! 食い物ってのは豪快にやったほうが美味いってもんでしょうに!」
「あ、ああ、そうだね。おばさ…いや! お姉さん!」
 おばさん、と言いかけてぎらりと睨まれ、慌てて言い直す。
 しかし、なるほど。たしかにそれぞれの鍋からいいにおいが漂ってきた。
「おう、そうだそうだ、これも使ってくれ。今朝方獲った鳥と兎の肉だ」
「あらぁ、ありがたいねぇ。そんじゃ、適当に放り込んどくからね」
 カブキから包みを受け取ると女はのしのしと鍋に向かい、ぼちゃんぼちゃんと肉を鍋に投げ込んでいった。やはり豪快というよりも大雑把…なのではないか。
「おーい、早いのはもう食えるんじゃないか?」
 鍋を見て回っていた男が回りに一声かける。というか、彼はもう食い始めていた。
「待て馬鹿! 最初はカブキさんだろうが!」
 椀を運んでいた男がそれを見て慌てて駆け寄り、一発頭を引っぱたいた。だが「いやすまんすまん」と言ってもう一口つまみ食いをする。
「ああ、いいじゃないの。さあ、みんなも早く食わないと全部食われちまうかも知れないぜ!」
 カブキはそう言って、おどけながら自分もつまみ食いをして見せた。椀を運んでいた男はそれを見て苦笑をもらし、「ほらほら」と椀で鍋の中身をすくって二人に押し付けた。
「おう、美味え美味え! みんなも食え、いややっぱり食うな、俺がみんな食うから!」
 村人たちはそりゃかなわねえや、と口々に言いながらそれぞれ鍋の周りに陣取ってつつきはじめる。そのうち杯も回されて飲めや歌えの大騒ぎになっていた。日が沈んだ頃にほどよく酒の回ったカブキが日頃歌っている歌を披露すると、村人たちは総じて引きつった笑みを浮かべて惜しみない拍手と喝采を贈った。
 やがて宴は尻すぼみに終わり、まだもくもくと食い続ける者も幾人かはいたが、騒ぎ疲れて家に戻る者、その場で寝てしまう者などの脱落者が多く、カブキも亜沙が戻った家で休むことにした。というのも、亜沙の両親はその友人の家に転がり込んだまま寝てしまい、そこには亜沙しかいないからだ。そこで一人で寝るのが怖いという亜沙が、「お願いですから一緒に寝てください」と頼み込んできたのだ。
 正直、カブキは鍋の横でそのまま寝てしまいたかったが、亜沙との約束を思い出してなんとか立ち上がる。
「おーい、亜沙ー。寝てるかー?」
 こつりこつりと爪先で戸を叩きながら小声で問いかける。返事がないので、そっと薄く戸を開いてみる。
 ――そこには、信じられない光景があった。
 亜沙は暗闇の中、ぐったりと力なく立っている。着物は乱れていて、白い肌が惜しげもなく格子窓から差し込む月明かりにさらされる。白い肌を青い月光が撫でるさまは、不気味であり神々しくもあった。目を凝らせば、薄明かりを通して薄い切り傷がいくつも肌を舐めているのが見えるだろう。
「いぃい具合だったぜぇ…! 未通女だったんだなぁ、この女よぉ」
 亜沙の後ろの暗がりから男がのっそりと現れ、そう言って亜沙をさらに明かりのもとに突き出す。
 薄く開かれた亜沙の口から……なにか、白く濁ったものが流れている。
 男が亜沙の着物を力任せに引き開ける。ようやく育ち始めたのであろう乳房には痛々しい歯形が刻まれ、ぬらぬらとした液体――おそらくは男の唾液――にまみれててかてかと光っていた。
 さらに男の手は下へ滑り降りる。亜沙は股の間に手を差し入れられながらも、びくりとしただけで抗う様子もない。
「おら! さっさと脚開いて愛しの愛しのカブキさんに見せてやんな!」
 亜沙はその言葉が聞こえたのだろうか。ゆっくりと両の脚が開かれ、少女の秘処が露わになる。
 ―――ひどい、ものだった。
 そこは無残に引き裂かれ、まだ乾かない血が幾筋も流れていた。それに混じるように、亀裂の中から時折こぽり、こぽりと白いものが流れ出す。男の精だ。
 亜沙が男に命じられるままに後ろを向き、尻を突き出す。
 そこも、血と精にまみれていた。
「へっへっへ……この女ァ、よりにもよってあんたを好きだとかぬかすもんでな、ちぃっとばかりお灸を据えてやったって寸法よ。その甲斐あって、ホレ、今じゃァどんな魔羅でもしゃぶりつくすぜぇ?」
 男はおもむろに自らの魔羅を取り出して、亜沙の前にもってゆく。すると亜沙は、ゆっくりとだがためらうことなくそれを口に含んでしごき始めた。
「――――やめろ」
 男はカブキの声に気付かないふりをして、指を亜沙の中に潜り込ませる。指が侵入するにつれ、小さな尻たぶがきゅぅっと縮こまるのはこの上なく淫猥だった。
「――――やめろ」
 男はますます増長し、指の動きを早める。亜沙の穴は、いまだに蜜よりも多くの血で濡れているにもかかわらず。
 そして、男は亜沙の口の中に果てた。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
 カブキが疾風のごとき動きで囲炉裏を飛び越え、男の頬に拳骨を見舞う。ぶん殴られた男は壁に打ち付けられ、低くうめいている。それでも魔羅はいきり立ち、精を流すのをやめようとはしない。
「亜沙! 亜沙! しっかりしろ、おい亜沙!!」
 男などには目もくれず、カブキは亜沙を抱き起こす。しかし彼女の目はうつろで、カブキどころかこの世界すら見ていないようだった。
「亜沙……亜沙ぁぁ――……」
 虚ろな目をした亜沙を抱きしめ、カブキは涙を流した。
「―――あ、れ…? カブキさん、ですか……?」
 今頃になってカブキがいることに気付いたらしい亜沙が、小さく声を漏らす。
「ああ、俺だ、亜沙!」
 慌てて顔を離し、光が戻った亜沙の目を見つめて名を呼び続ける。
「よかった……私、とっても痛くて、気持ち悪くて……でも必ずカブキさんが助けてくれるって…信じてました」
「応よ、ちっと遅れたかもしれねぇが助けに来たぜ。さ、今日はもう遅い。もう休みな」
 カブキは涙を拭うこともせず、亜沙の頭をやさしく撫でる。亜沙はそれが心地よいのか、くすぐったそうな笑顔を浮かべている。
「……はい。その、ありがとう…ございます、カブキさん」
 ゆっくりと目を閉じた亜沙は、それでも寝ようとせずに言葉をつむぎだす。
 他愛もない話だった。わずかに涼しくなった夏の夜が好きだとか、今年の田植えでは何度も水田の中で転んで泥まみれになったことだとか。思い出したように笑ったかと思えば、先ほどカブキが歌った歌があまりにも愉快だったからだと言う。
 カブキはそれを聞いて時折相槌を打ちながら、手ぬぐいで亜沙の体を丁寧に拭っている。なるだけ傷を刺戟しないように、けれど汚れはすべて拭い去る。
 亜沙の手を開く。そこには『魔』の文字が黒々と書かれていた。これは魔化魍が選んだ生贄にその証として送る、いわば烙印だ。魔化魍が定めた期日までに生贄に捧げなければこの呪いの文字が生贄を苦しめ、やがては死に至らしめる。
 この文字を消すにはこれを送った魔化魍を倒すしかない。
―――絶対に助けるからな、亜沙。
 その文字を覆い隠すように掌を重ね、軽く握る。亜沙はそれに驚いたように小さく声をあげかけたが、ためらいがちにカブキの手を握り返してきた。
 しばらくそうしていると、亜沙は小さな寝息をたてはじめた。
 カブキは亜沙がすっかり寝入ったことを確認すると、思い出したように少しの間だけ亜沙から離れ、気を失った男を家の外に引きずり出して後ろ手に縛り上げた。そのあとはまた家の中に戻って、安らかな寝息を立てる亜沙のそばで座ったまま休んだ。
 ――亜沙の手を握ったまま。


「魔化魍、魔化魍だぁ―――!」
 カブキが浅い眠りに入ってから半刻の後、闇夜の静寂は破られた。村人の誰かが魔化魍の襲来を告げた声は、その直後にくぐもった声を残して途絶える。
「さっそく来やがったか、火焔大将!」
 カブキは眠っている亜沙に「ちょいと行ってくるぜ」とだけ声をかけて立ち上がる。亜沙を起こさないよう、静かに、それでいてすばやく板戸を開け放って月光の降り注ぐ闇へと踊りだした。
「お願いします、鬼の旦那!」
 村人の嘆願を受け、颯爽と闇を舞う。あちこちで眠っていた者たちはいち早く逃げ出していた。だが、魔化魍の襲来を告げた男は首をありえない角度に曲げて木の根元に横たわっている。それを見て、未熟な自分を責めるようにカブキの心が痛んだ。
「―――歌舞鬼!」
 焚き火の跡を飛び越えながら鬼に変わる。冷たい月明かりだけが降りそそぐ闇夜に一瞬だけ灯った変身の炎は力強く、神々しかった。
 歌舞鬼はそのまま音叉剣を大上段から火焔大将の兜へと振り下ろす。しかし火焔大将は豪炎魔剣を頭上に掲げてそれを受け、反動を利用して歌舞鬼から距離をとる。
「前は逃げられたがなぁ、今度はキッチリ倒してやるぜ!」
 右手の音叉剣を頭上に水平に構え、半身の姿勢をとって左手の音撃棒を前に突き出す。そのまま寸時にらみ合い、歌舞鬼が戦いの口火を切った。
「―――しゃっ!」
 烈翠で振り下ろされる豪炎魔剣の軌道をずらし、真向唐竹割りに音叉剣を振り下ろす。歌舞鬼の剣は見事に火焔大将の兜に吸い込まれたが、その後立を断ち割るにとどまった。
 歌舞鬼は舌打ちをして火焔大将の腹に蹴りを入れ、一足分だけ飛び退く。そして身を撓めて力をためると、姿勢を低くして火焔大将に突撃する。しかし振ると見せた音叉剣はぎりぎりのところで引き、地に突いた左手を軸にして強烈な脚払いを仕掛けた。
 歌舞鬼の策に見事にかかった火焔大将はころりと尻餅をつき、そこに歌舞鬼が馬乗りになる。両手に音撃棒を執って今しも振り下ろさんとすると、今頃になってようやく目覚めたのか、亜沙を襲った男が縛られたままひょこひょこと出てきた。
「おいお前、危ねぇぞ、逃げろ!」
 男はまだ夢うつつらしく、歌舞鬼の声が聞こえない。そして火焔大将が男に気付き、わずかに気をそらしていた歌舞鬼を振り払って彼に走り寄る。
「ち―――!」
 歌舞鬼は迷わずにそれを追った。辛うじて火焔大将と男の間に割って入り、烈翠を構えたが――
 火焔大将が火を吐いた。人を食えぬのならばもろともに焼き尽くしてしまえ、という論法なのだろう。しかし歌舞鬼にも切り札がある。
「せいっ!」
 歌舞鬼が一声かけると、その手にはどこからともなく現れた番傘が握られていた。それをばっと開き、炎にかざす。一見すると華奢な番傘は、しかし焦げることもなく火焔大将の炎を防ぎきった。
「ひいいいいいっ!」
 ようやく目の覚めた男が目の前の光景を見て悲鳴をあげる。さもありなん、目の前には鬼がいて、その後ろからは火焔大将が火を吐いて襲い掛かってくるのだから。
「逃げろ、早く!」
 歌舞鬼は仇ともいえる男の縛を解くと、火焔大将のみに意識を集中した。
「あひゃああああああ!」
 男が一際高い悲鳴を上げ―――歌舞鬼の背を、深々と刺していた。
「な、に――?」
 歌舞鬼は驚愕するが、火焔大将から目をそらさない。火焔大将の火が弱まったのを見計らって口を開き、番傘を捨てる。そしてこちらも口から鮮やかな緑の炎を吐いた。
 歌舞鬼が放った鬼法術・鬼火はあやまたず火焔大将を捕え、その身を業火に包んだ。火焔大将はしばらく身をよじって苦しんでいたが、勝機なしと見て炎に姿を変えて消えてしまった。
「また逃げられたか……っと、ふぅ――ふっ!」
 歌舞鬼は刺された背中に気合を集中して、一気に傷を癒した。それから後ろを見たが、男はすでにおらず、そこに短刀が転がっているばかりだった。


「刺すなら俺じゃなくて魔化魍だろっての。ま、よーく話は聞かないとな」
 軽口を叩いているが、しかしカブキははらわたが煮えるような思いだった。亜沙を犯した男が、魔化魍からかばった俺を刺した。これが怒らずにいられるか。
 カブキは装備帯にその短刀を差して、亜沙が眠っている家へと歩みを進めた。
「ちょっと待てよ」
 戸に手をかけようとしたとき、家の横から先ほどの男がぬっと現れた。それを見て思い切り殴り飛ばしたい衝動が胸のうちに湧き上がったが、どうにかそれを押し止めることができた。
「忘れもんだ。それに刺す相手を間違えたな」
 低い声で言い、短刀を差し出す。だが男はそれを受け取らずにカブキの後ろに歩いてゆく。
「おーい、みんな! ちょっと集まってくれ!」
 男が一声かけると、家々から村人たちがぞろぞろと出てきた。みな先ほどの魔化魍騒ぎで起きたはいいが、歌舞鬼が戦っている間ずっと息を潜めていたのだろう。彼らがのそりのそりと集まり、カブキと男を中心とした円を描いた。
 そして頃合いを見計らい、男がカブキに対して口を開いた。
「さて、前置きはいらねえさな。お前、二度も魔化魍を逃がしたが……本気で戦ってるのか?」
「どういう意味だよ?」
 思いもよらぬ質問にカブキには返答のしようがない。もちろんカブキは全力で火焔大将と戦っていた。歌舞鬼が逃したのではなく、火焔大将が逃げたのだ。
 男はそんなカブキを鼻で笑い、続きを口にする。
「魔化魍とつるんでこの村を食い物にしようってハラなんじゃねえのか?」
「おい、いい加減にしないか!」
「村長は黙っててくれ。俺はこの鬼と話してるんだ」
 男は村長の制止にも一向にひるむことなく、カブキを罵る言葉をつむぎ続ける。カブキはそれに呆れ気味に応じることにした。
「魔化魍を仕留めそこなったことは認めるがな。ありゃあ火焔大将が勝手に逃げただけだぜ。それに、言っちゃあ悪いがこのくらいの村ならゴマンとあらぁ。山賊にしたって襲いやしねえだろ?」
 少しばかり家が集まった程度の村にはカブキが好む華やかなものはない。第一、カブキは欲しいものがあっても策略を巡らせてそれを得るような卑劣な男ではない。
「目当てが他にあるなら別だろう? たとえば、女」
「女ぁ?」
「亜沙だよ」
「てめぇが亜沙のことを話すんじゃねえ! この外道が!」
 カブキの脳裏に犯されてぼろぼろになった亜沙の姿が蘇る。亜沙に魔羅をしゃぶらせてよがっている男の姿も一緒に。
「ほれ、みんな見たか? こいつは亜沙に大層ご執心だぞ」
 その言葉に、どよめきが広がる。
 カブキは亜沙に惚れたか、と問われれば否と答えようが、不思議なことに惚れていないのかと問われても否と答えるだろうと彼自身が思っている。
「そうじゃねえ! こいつが亜沙を…!」
「あんたは亜沙が手に入らないと分かって、亜沙を犯した!」
「違う! 俺はそんなことしてない!」
「どうだか。亜沙の寝言でも聞いてみろ。苦しそうにカブキさんカブキさん、だとよ。着物を脱がせりゃ傷だらけだろうなぁ。かわいそうに…」
「それは、お前が…!」
 男はカブキの言葉に耳を貸さず、近くにいた初老の男に亜沙の様子を見てくるように言う。初老の男は小さく頷くと輪を外れて亜沙が眠っている家に入っていった。
 それからしばらく、村人たちは漏れ聞こえる衣擦れの音に耳をそばだて、しわぶき一つ鳴ることはなかった。
 ようやく出てきた初老の男に、男が目で合図をしてどんな様子だったか話すよう促す。
「ああ、起きないようにしたからあまりよくは見えなかったが……間違いない。犯されておる」
「それ見ろ! お前が犯したんだろうが!」
「違う、俺じゃない! 亜沙を犯したのはお前だ! それから、俺が助けてやったってのにこんなもんで刺しやがって!」
 と、短刀を地に叩きつける。それを見て初老の男が付け加えた。
「もう一つ。亜沙の体には……薄くだが、切り傷があった。あんな傷をつけられる切れ味のいい刃物はこの村にはその刀しかないはずだ」
 地に落ちた短刀を見ていった。
「その刀は俺のもんだが、昨日どっかに落としちまってな。幸い、あんたが拾ってくれたみたいだが」
 男は短刀を拾って懐に仕舞いながら、カブキに憎悪の眼差しを向けていた。その眼差しはだんだんと村人たちへと広まり、やがてカブキは集った全員から下衆な敵対者として睨まれていた。
 男が大嘘をついているとカブキが弁解しようとも、もはや村人たちはそれに耳を貸さない。村人にとって男はこの村で暮らしてきた仲間であり、カブキは恩人とはいえ余所者で―――鬼なのだ。
 この時代の人々は、その姿と強大な力への畏怖や憧れの裏返しで鬼を嫌っている。その感情を拭うにはおそらく、大岩を絹布で撫でて消すような、それほどの不可能ともいえる忍耐と努力が必要だろう。
―――下衆め。
―――恥知らずな間夫め。
―――よくも亜沙を。
「ち、違う! 俺は亜沙を犯してなんかいない!」
―――失せろ。
―――失せろ。
―――さっさと失せろ。
「亜沙に訊いてみろ! 俺が嘘をついていないってのが分かる!」
―――汚らわしい鬼め。
―――消えて失せろ。
 飛礫が飛び始めた。
 はじめのうちは一つ、二つ。それがどんどん増え、カブキは村人全員から石を投げられていた。
 しかし、声はない。静寂のうちに、カブキの体を飛礫が打つ音だけが虚しく響いている。
 それでもカブキは動かない。深く俯き、拳を握って肩を震わせているが、それ以外は微動だにしていない。
 ――葛藤が。カブキの心では巨大な獣が暴れまわり、カブキを暴力に導こうと躍起になっている。
 カブキはそれを必死に押し止めている。いま獣を解き放てば、脅しで言った『ぶっ飛ばす』程度で済むはずがない。手向かうものは誰彼なく殴り殺してしまうだろう。それでは、駄目だ。
―――鬼は人を守るものだろう。人を傷つけてどうする?
―――こいつらは俺を悪党と決め付けて憎んでる。
―――違う、それはあの男だけだ。
―――同じさ。その証に俺に石を投げているじゃないか。
―――人を傷つけたら魔化魍と同じになってしまう。
―――かまうものか。やれ。さあ、やれ。
 カブキは血がにじむほど強く拳を握り締め、ゆっくりと一歩踏み出した。それを見た村人たちは揃って一歩後ずさり、一瞬石つぶてが空を飛ぶのをやめる。しかしそれは所詮、一瞬。村人たちは後退した一歩をすぐさま取り戻し、石もがつんがつんとカブキの体に喰らいついてくる。
 無言の罵倒と石の雨の中、カブキは一歩一歩ゆっくりと前へ進む。
「……どけ…!」
 自分の爪でえぐれた掌を、すばやく横に振る。そこから血が数滴飛び、それを避けるかのように人垣が割れる。
 俯いたまま、肩を震わせ、それでもカブキは歩き続ける。やがて飛礫が当たるのも頭や肩から背、脚と下がっていき、ついには当たらなくなった。それでも自分を否定する目がすぐそばで睨んでいるような気がして、顔を上げることができない。だから逃げるように、ゆっくりと。どこまでも歩き続けるしかなかった。


 カブキを敵として村から追い出した男は、こっそりと村を抜け出して森の中を歩いていた。カブキを追うために。そのあと、彼女に会うために。
 幸いにもカブキの歩みはのろのろとしたものだったので、容易に追いつくことができた。しかしそれでは芸がないと思い直し、かなり大回りをしてカブキの前に回りこんだ。
「よお、カブキ。へっ、ざまぁねえな、鬼の旦那よ!」
 俯いて歩き続けるカブキに、容赦のない罵声を浴びせかける。いまの彼にそんなことをすればどうなるかわかっているだろうに。いや、それこそがこの男の目的なのだ。
「どうした? 鬼ってのは人の言葉もわからねえほど能無しなのか? あ?」
 ふらり、とカブキが立ち止まる。その拳は村を追われたときから握り通しで、まるで蝋のように白くなっていた。
「黙って……帰ってくれ…」
 力なくそう言うのが精一杯のようだった。
「聞こえねえぞ? ホレ、もっとでかい声出してみろよ」
 男はカブキの目の前に耳を寄せ、耳に手を当てて挑発を続ける。
「………帰れって……」
 聞こえないふりを続ける。
「帰れって言ってんだろうがこのクズ野郎!!」
 ついに、カブキの拳が閃いた。鋼のように固く、氷のように冷たい拳は男の頬桁にめり込み、そのまま男を殴り飛ばした。
「ってぇ――なオラぁ! いや…ク、ククク、ひははははははははは!」
 男は激痛に顔をゆがめながらも、その口からはなぜか哄笑が迸る。カブキがそれを量りかねていると、血の混じった唾を吐き捨てて男はこう続けた。
「人を守るのが鬼の仕事たあよく言ったもんだ! せいぜいがんばってくんな、旦那よぉ!」
 それだけカブキに浴びせかけると、男は一目散に村の方向に走り去って行った。
 カブキの心は、男の言葉と、それ以上に自分の行為によって抉られていた。
 人を守ると誓って鬼になり、人を守るために魔化魍と戦っていたのに。人を……傷つけてしまった。自分の意思で、自分の拳で。二度も。
「……ぁぁぁあああ、ぅぅ、あああぁぁぁぁぁ………」
 カブキは、その場にうずくまって泣きじゃくっていた。
 人とは、これほどに汚いものなのか。
 人とは、これほど簡単に裏切るものなのか。
 誇りは、これほどに折れやすいものなのか。
 俺の誓いは、こんなにも脆かったのか。
 俺は、こんなにどうしようもないほど弱かったのか。
 許せなかった。何も、彼も。すべてを憎みたかった。


 カブキに殴られた男は村には帰らず、その近くの森に入っていた。
 ここに、いるのだ。最高の女が。亜沙のごとき小便くさい餓鬼などとは比べ物にならない、いい女が。
「ヒトツミ……いるか」
 何処の誰に向けた言葉なのか。男が期待した返事はない。
「ヒトツミ? ……ヒトツミ!」
 その声に応えたのか、わずかに物音がする。
「ああ、ヒトツミ……そこにいたのか」
 男が物音のしたほうを向くと、そこには女が――口元に妖しい笑みを貼り付けた美女が立っていた。
「ええ、あなた。愛しいあなた。私はここにいるわ」
 どちらからともなく近付き、互いの体を抱き寄せて唇を貪りあう。ねっとりとした、清らかさの欠片もない淫らで醜い接吻だった。
 長い長い接吻のあと、唾液で糸を引く唇で男が言う。
「お前の言うとおり、鬼は追い出したよ…」
 男はまた女の唇を吸う。今度は下唇のみを、吸い込むように舐め上げている。その行為に高揚した男は女の胸元に手を差し込み、尻を乱暴に撫でる。女はわずかに顔をしかめたが、唇を吸うのに夢中の男はそれに気付かない。
 女は下唇を吸われたまま、ゆっくりと言葉をつむぐ。
「――そう。なら、あなたはもう……用済みよ」
 下唇に吸い付いている男の口を、逆に吸う。はじめのうちこそ男は恍惚としていたが、その顔はすぐに恐怖に歪む。
「んんっ! んぅ―――!」
 男の顔から急激に血の気が引いてゆく。女とあわせた口元からは血の筋が、ひとすじ、ふたすじ―――
 ものの数秒も経たないうちに男は悲鳴もあげず動きもしなくなった。どさり、と捨てられたその屍は、血という血が根こそぎ吸い取られていた。
「やはり人の血はまずい。ことさらに男の血は最低だ」
 そう吐き捨てた女の姿に、一瞬だけ異様な姿が重なって見えた。南蛮風の銀の鎧を纏い、重厚な槍と丸い盾を携えた魔人。それは強大な魔化魍だ。
 飯を食わずに働く美女に化けて嫁ぎ、里を隠れ蓑にして鬼の血をすする――二口女。
 別名、外通魔人奇骸羅帝。
「まあ、若い女を吸えただけよしとするか。しかし惜しい。処女であればもういくらかはましだったろうに……この役立たずめ」
 ぐしゃり、と男の屍の頭を踏み潰す。後ろに目を向ければ、そこには少女と思しき屍が。
 ――亜沙、だった。
 丸裸で、そこにはあの輝くような可憐さの欠片もない。当然だ、死んでいるのだから。
 おそらくは、眠ったまま殺されたのだろう。抗った跡も、恐怖に歪んだ表情もなかった。夢を見たまま、自分が死んだとも気付かないうちに殺された。
 その夢は犯された夢か、それとも愛しいカブキの夢か。
 せめて後者であってほしい。たとえ夢の中であっても、愛しい人と結ばれることは幸せだろう――
「さぁて。あとは童子と姫に任せるとしようか。ああ、美味い鬼の血が飲みたいのぉ」
 ヒトツミは、ふっ、と闇にまぎれて消えた。


 泣き続けるカブキに二つの人影が近付いた。もはや言うまでもなかろうが、それは童子と姫だ。
「鬼か」
「鬼か」
 カブキは応えない。つい半日前には堂々と「鬼だ」と名乗っていた男だとは到底思えない、無様な格好で泣き続けている。
「わしらとともに来ぬか、鬼――否、魔化魍・歌舞鬼」
 その言葉にやっとカブキが反応した。うずくまったまま言う。
「俺は……魔化魍じゃ、ない」
「人を傷つけるものが魔化魍、人を守るものが鬼。お主が言うたことぞ。ならば、お主は紛れもなく立派に魔化魍の仲間ではないか」
 その言葉に……返す言葉がない。
「来ぬか」
 姫がカブキの前に手を伸ばす。しかし、カブキはそれを見つめるきりで手を伸ばそうとはしない。
「お主が守ろうとした人は、守るに値したか?」
 童子が問いかけると、カブキの脳裏にここ数刻の出来事がすべて再現された。
 亜沙を生贄に捧げようとした村人。
 助けてやれば宴を催し、歓待をした。
 その裏ではいたいけな少女を手篭めにする汚らわしい男がいた。
 その男の言をすべて鵜呑みにして、掌を返すように俺を追い出した村人。
「ほれ、これを見よ」
 童子が掲げたのは、屍だった。――亜沙の。
「やつらはな、お主を追い出したあとためらいもなく我らにこの娘を差し出したぞ」
 無論、これは嘘だ。カブキが村を出たあとにヒトツミが夜陰に乗じて村に忍び込み、誰にも気付かれぬうちに眠っていた亜沙を喰らったのだ。その食いカスが、この亜沙の屍だ。
 そしてこの屍は、童子と姫が思ったとおりの効果を生んだ。
「ああああああああああ!!! 人なんざ、罪のねえ子供を虐げる大人どもなんざ守るに値しねえ! それを守るなんてぇ鬼どももクズだ! 俺がみんなブチ殺してやる!!」
 童子と姫は顔を見合わせ、にぃ、と笑いあう。
「ならば、我らとともに来い」
「我ら血狂魔党、眼目はお主と同じ」
 カブキはためらうことなく、姫が差し出した手を取って立ち上がった。
「ああ、協力してやらあ! 鬼と大人どもを殺す手伝いでもなんでもしてやる!」
 このとき、誇り高い鬼が一人、堕ちた。




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