傷つく心


 カブキの道行きは山道に差し掛かっていた。ただの人ならばすぐに体力を使い果たして倒れかねないペースで歩きながらもその健脚は鈍らず、表情にも疲れた様子はない。それどころか鼻歌を歌う余裕すらある。
「鬼と女子は見えぬぞよろし〜ぃ、古の書に伝えて〜謂う〜はぁ〜ぃ、鬼神であれども、鬼魅といえどもぉ、荒ぶる神の遠縁者ぁ〜」
 この歌は鬼と魔化魍は本来あるものがありえないモノに変化した、という点では同じ存在だと説く歌だ。カブキはこれをことさらに好み、鬼と魔化魍の違いは心根一つだと自らを固く戒める意味でよく歌う。他にも人が魔化魍に生贄を捧げる理由を説く一節もあるのだが、そこは好きではない。
 調子も巷に流布している歌とはかなり違い、これに楽器がつくとさらに奇矯な曲となる。主に弦を張った楽器で伴奏をするのだが、どちらかと言えば楽士よりも弦の使い手の音撃に似たものなのだ。
 周りを見渡しても、目に飛び込んでくるほとんどの色は緑だった。しかし、濃淡や色合いが微妙に違って、葉の一枚一枚であっても同じ色は存在しない。そこに陽の光が当たって緑色の光が反射したり、または葉を通り抜けていたりと、日がな一日眺めていたところで飽きることはないだろう。
 上を見れば木々。下に目を落とせば名も知らぬ草。ときおりがさがさと騒ぐのは野兎だろうか。暑苦しい虫の鳴き声もそれなりに心地よい。
 ――ふと、この景色に似合わぬ嫌な気配に気付いた。これは……邪気。
「――魔化魍!」
 叫んだときはすでに走っていた。
 こんな山奥に出るのは何だ? 普通に考えるならヤマビコかツチグモ、ヌリカベあたりか。沢があるならバケガニかもしれない。考えたくはないが、沼でもあればイッタンモメンやウブメが出るかもしれない。
 バケガニは相性が悪い。太鼓より弦のほうが向いているのだが、しかしいざとなれば戦えない相手ではない。しかし、イッタンモメンやウブメならば手を出せない。太鼓では空を飛ぶ魔化魍に太刀打ちできないのだ。
 旅の邪魔になったろうが、音撃管もチキからせびり取って来ればよかった。
 ち、と舌打ちをしてその考えを打ち消す。今ない物に頼ってはいけない、今の自分にできることをしなければ!
 邪気が伝わってくる方向へ駆け、走りながら魔化魍がどんな相手かを推測する。蜘蛛の巣は見当たらない。よってツチグモは除外できるだろう。水音も聞こえない。ならばバケガニも除外できる。沼の臭いもしない。邪気の感じもこの推測を裏付けている。よし、だったら何とかなるぞ!
「ウオオオオォォォォォォ――――――――………」
 耳を覆いたくなるような音が遠くからかすかに聞こえる。それに従って、周囲の木々の葉がわずかにしなびた。カブキは立ち止まって、耳を澄まして音と邪気を念入りに検分する。
「ヤマビコか……」
 そう言うと、カブキは腰に吊るした黒い変身音叉を手にとる。ひょい、と足を上げて踵で音叉の先を弾いて音を出し、キィィィン、と共鳴するそれを額にかざす。
「―――歌舞鬼!」
 全身から炎が噴き出し、肉体が変化してゆく。人から鬼へ。飄々たる傾奇者から堂々たる戦鬼へ。
 数瞬の後、そこには一人の鬼がいた。彼は先ほどの音が聞こえたほうへ全速で走る。しばらくすると、ズゥン、ズゥン、という岩が落ちるような音も聞こえてきた。顔を上げれば、巨人が見える。ざんばら頭で丸裸の魔化魍――ヤマビコ。
 しかし、歌舞鬼はヤマビコを前にしたまま動けなくなってしまった。魔化魍に恐れをなしたからではない。彼の足元に子供がいたから。いや、そうではない。子供が『あった』。その子供はもう死んでいた。のどが鼈甲のようになって、しかもえぐられている。声を食われたのだ。
 屍の近くには潰れた背負い籠が転がっている。この子供は山菜でも取りに山に入り、不幸にもヤマビコの餌食になってしまったのだろう。
 死んだ子供を見下ろす歌舞鬼の手が拳になり、ぶるぶると震える。その表情は――仮面のような鬼の顔のまま、窺いようがない。
「許さねぇ!」
 歌舞鬼は子供の死体から強引に視線を引きはがし、悠々と歩んでいるヤマビコに意識を集中する。
「鳴刀・音叉剣!」
 手に取った音叉に力を込める。するとそれがすぅっ、と伸びて一振りの刀が現れた。音叉剣を右手に、左手には腰の後ろから音撃棒・烈翠を抜いて握る。そして、走る。ぐんぐんとヤマビコの背が近付き、足が目前に迫る。
「おらぁっ!」
 巨大な踵の上に狙いを定めて跳ぶ。腱を狙って音叉剣を振り下ろし、それだけでは切断しきれないと見るやすかさず峰を音撃棒で叩く。ガツン、と確かな手ごたえ。
 ぶちり。
 ヤマビコの左足のアキレス腱が不快な音を立てて断裂した。左足を上げようとしていたヤマビコはバランスを崩し、前のめりに転倒する。歌舞鬼はちょうどよくもう一本の足がそそり立つのを見て、音叉剣を引き抜いて飛び移る。
「せいりゃっ!」
 逆手に持った音叉剣を腱の内側に突き刺し、音撃棒で外側へと倒す。ざくり、という手ごたえを残して、ヤマビコの巨体を支える両のアキレス腱は切断された。
「よくも、よくも子供をおぉぉ―――っ!!」
 地に転がった音叉剣をそのまま捨て置き、右手にも音撃棒を握る。普段ならば凛々しく頼もしいその姿は、怒りと哀しみでどこか歪んでいた。
 装備帯に装着された音撃鼓を外し、転倒したままのヤマビコに飛び掛る。それに気付いたヤマビコが咄嗟に寝返りを打ち、右手の甲で歌舞鬼を叩き潰そうとする。それをまともにくらった歌舞鬼は潰されこそしなかったものの、何間も吹き飛ばされて山の岩肌に叩きつけられた。
「っが……!」
 それでも歌舞鬼の内に満ちた怒りは消えない。それどころか後から後から湧き上がってくる。
―――あの子は、もっともっと苦しんで、死んじまったんだ! てめぇが殺したんだ!
 背にめり込む岩を両肘で突き、その勢いを利用して再びヤマビコに駆け寄る。ヤマビコは左手をかざして、うるさく飛び回る蝿を叩くかのように狙いを定めている。
 歌舞鬼が跳ぶ。ヤマビコの手が飛ぶ。
 ヤマビコの手は狙い違わずに歌舞鬼を打った。しかし、それは歌舞鬼の狙い通りでもあった。タイミングを合わせて身を守りつつ、ヤマビコの掌に音撃鼓を突き入れる。歌舞鬼は空中で体勢を整え、ひらりと着地する。目の前に横たわるヤマビコの左手には大きな音撃鼓が投影されていた。
「喰らえっ!」
 音撃棒を滅多矢鱈に叩き込む。乱暴な音撃は左手の下に重なる右手にも伝わり、ヤマビコの両腕は徐々に膨張してゆく。そして、両腕が破裂した。
「ゥウウウオオオオオオオォォォォォォ―――――――――!!!」
 ヤマビコが叫びをあげる。腕を失った痛みからか、歌舞鬼に対する憎しみからか。どちらにしろ、ヤマビコの叫びには動物と植物の別なく死滅させる毒が含まれている。強力な攻撃には違いなかった。が――
「鬼にゃあな……効かねぇんだよ!」
 音撃鼓と音叉剣を拾い上げた歌舞鬼が怒鳴る。そして、音叉剣を蓬髪の隙間から覗くヤマビコの左目に突き刺した。それでも飽き足らず、左の鬼爪を右目に抉りこむ。手に伝わるぶちゅぶちゅ、という感触が不快で、歌舞鬼はさらに怒り狂う。
「魔化魍なんざ、さっさとみんな死んじまえ!」
 歌舞鬼は音撃鼓をヤマビコにぶつける。――ヤマビコの、のどに。
「音撃打・業火絢爛!!」
 怒涛のごとく音撃棒が振るわれる。鬼石が音撃鼓を叩き、魔化魍の体に清めの音を響かせる。だが、一向にヤマビコが清められて爆発する様子はない。ただ腕と足とのどの痛みに呻いているだけだ。
 魔化魍を清めるためには清めの音しか方法がない。たとえそれ以外の方法で倒せたとしてもそれはそう見えたに過ぎず、邪気が残った残骸はすぐに魔化魍に戻ってしまう。
 そして清めの音を放つには鬼自身が清浄でなければならない。鬼となり鬼であるためには、心に棲む悪鬼を殺さねばならない。
 子供の死を悼むのはいい。魔化魍を倒すのもいい。だが子供の死に囚われ、怒りに心を奪われた歌舞鬼が、果たして清浄な音撃など放てるのだろうか?
「ああああああああああああああああ!!!」
 もはや歌舞鬼は駄々をこねる子供のようだった。何度も狙いを外し、そのたびに音撃棒はヤマビコの肉を叩き潰し、しかし徐々に清めの音は浸透している。だがその清めの音は歌舞鬼から放たれたものではない。音撃鼓を音撃棒の鬼石で叩く、という行為から出た機械的で微弱なものでしかない。
 めり、めり。
 ヤマビコの体が徐々に膨張する。
「ゥゥォォォォォォ――――……」
 のどを潰され、しかし完全に制圧されたわけではないヤマビコが小さな叫びを上げる。歌舞鬼はそれを無視し、わめきながら音撃棒を振り続ける。
「お前が! お前が!! お前がああぁぁぁ!!!」
 業ッ!
 二百ほど音撃棒を振った頃か。ようやく、ヤマビコは爆散した。普段ならばどんな魔化魍であろうと三十回も叩けば倒せるはずだったが、今度ばかりは心が折れた。子供の死と、自分の憤怒に。
 歌舞鬼は変身を解き、それでもなお慟哭し続ける。それは四半刻も続いた。


 泣きはらしたカブキは先ほどの子供をせめて埋葬してやろうと思い、顔を上げた。しかしその目に飛び込んできたのは、目を背けたくなるような光景だった。
 青々と茂っていた草木は残らず枯れ、野山を駆け回っていたであろう動物たちはみな死んでいた。あれほどうるさかった虫の声も、今はない。
 カブキの泣き声が消え、辺りを静寂が支配した。
―――俺が、しっかりしてれば……!
 歌舞鬼が激情に囚われなければ、ヤマビコに苦戦することはなかっただろう。――ヤマビコに叫びをあげさせることも。
「ああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――!!!」




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