以下はニューヨーク市民たちに『タワー・オブ・テラー(恐怖のホテル)』と呼ばれる、閉鎖されたホテル・ハイタワーにまつわる新聞記事、関係者の手記、ならびに最も重要なマンフレッド・ストラング氏並びにベアトリス・ローズ・エンディコット女史が自らの足でホテル・ハイタワーに踏み入り、その目で集めた情報を著者なりに整理したものである。
 現在、ホテル・ハイタワーはベアトリス女史が創設したニューヨーク市保存協会が主催するホテルツアーが行われているため、我々一般人でも(無論そのごく一部のみだが)立ち入ることができる。
 ホテル・ハイタワーに関する不気味な噂を信じて近付かないのが賢明なのか、あるいは迷信と断じて踏み込むのが勇敢なのか、著者は敢えて判断を保留し、読者諸氏に委ねることとする。


アーチー
 アーチボルト・スメルディングのこと。彼は1908年10月21日にこの名前でベアトリス・ローズ・エンディコットに接触した。ホテル・ハイタワーについて相当に詳しい。
 汚い山高帽とつぎはぎだらけのコートを着て白いひげを生やした痩せた老人で、何かに怯えている様子だったが礼儀正しく優しい。かつてホテル・ハイタワーでコックの助手として働いていたが、ホテル閉鎖によって失職してブルックリンの姉の家に厄介になっていると話していた。
 まずベアトリスにホテル・ハイタワーの買収を提案したが、コーネリアス・エンディコット三世がその取り壊しを計画していると知り、1912年5月4日にニューヨーク市保存協会の設立とホテルツアーを提案した。


アーチボルト・スメルディング
 ハリソン・ハイタワー三世の忠実な執事。32年もの間ハイタワー三世に仕え、探検旅行に常に同行し、ハイタワー三世の冒険物語やホテル・ハイタワーの壁画にも登場する。ハイタワー三世の従僕であり、執事であり、唯一の友人。ハイタワー三世のコレクションの管理を任されていた。
 英語のほかにフランス語、イタリア語、スペイン語、スワヒリ語、ヒンディー語を流暢に操り、20言語以上を問題なく理解したといわれている。また戦略家としての才能も兼ね備えており、ハイタワー三世の陰の参謀として活躍した。
 呪いを信じており、コンゴからシリキ・ウトゥンドゥを持ち帰る際にハイタワー三世が箱に密封したために起きた嵐を、シリキ・ウトゥンドゥを箱から出すことで鎮めた。
 彼の家系は記録になく、1867〜1868年にアビシニア遠征でサー・ロバート・ネイピア将軍率いるイギリス軍から脱走したアーチボルト・スメルディング伍長と同一人物ではないかと思われる。
 マンフレッド・ストラングとともにハイタワー三世の失踪を確認している。ホテル・ハイタワーの閉鎖後はホームレスとなり、1902年に放浪罪で逮捕され施設に送られたが、その後の記録はない。
 ハイタワー三世失踪後に彼も行方不明となっているが、タワー・オブ・テラーと呼ばれるようになったホテル・ハイタワーの一室に起居し、常に自分がシリキ・ウトゥンドゥを恐れることでそれを鎮めようとしている。
 また、1908年10月21日にはホテル・ハイタワーの取り壊しを防ぐために正体を隠してベアトリス・ローズ・エンディコットに接触し、ニューヨーク市保存協会を設立させてホテルツアーを計画させた。


アイリス
 ベアトリス・ローズ・エンディコットの友人と思われる。


アトランティス・ボールルーム
 ホテル・ハイタワーのインディアンタワーにある舞踏室。1899年12月31日、コンゴ遠征帰還記念パーティの会場となった。
 ポンペイで発見された大きな壁画が飾られており、またエントランスホールには当時のアメリカで最大の継ぎ目のない鏡が置かれている。


インディアンタワー
 ホテル・ハイタワーを正面から見て一番左に建っている四角い八階建ての建物。太陽の庭が屋上にある。館内にはアトランティス・ボールルームがあるが、現在は立ち入りができない。


ウィリアム・ハワード・タフト
 アメリカ合衆国第27代大統領。S.S.コロンビア号の進水式に招待されたが、コーネリアス・エンディコット三世と個人的に親しかったわけではない。


S.S.コロンビア号
 コーネリアス・エンディコット三世が建造した『洋上のホテル』と呼ばれる豪華客船。1909年に建造開始。1912年に処女航海を迎える。


S.S.コロンビア・ダイニングルーム
 U.S.スチームシップカンパニーの豪華客船S.S.コロンビア号にある、一等客室専用のダイニングルーム。ベアトリス・ローズ・エンディコットが内装を担当した。
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エンディコットグランドホテル
 コーネリアス・エンディコット三世がホテル・ハイタワーを取り壊して建てる計画をしていたホテル。1912年6月に計画が発表されたが、ベアトリス・ローズ・エンディコットの妨害により頓挫。


オスカー・キルノフスキー
 ロシアの著名な建築家。1886年にホテル・ハイタワーの建築を依頼されたが、意見が合わず後に解雇された。


オリンピック・レストラン
 ホテル・ハイタワーの大邸宅にある世界中の珍味を集めたレストラン。現在も残されているオリンピック・レストランのメニューは以下の通りである。

New Guinea Sago worms al dente
「ニューギニア サゴヤシ虫のアルデンテ」

Montana Prairie Oysters in wine sauce
「モンタナプレーリーオイスターのワインソース」

jellied Eel Compote
「ウナギのゼリーコンポート」

Fermented Shark with Cheese
「発酵したサメとチーズ」

Scorpion Consomme
「サソリのコンソメスープ」

Cream of Tarantula
「タランチュラのクリーム」

Monitor Lizard Pilet
「オオトカゲのヒレ肉」

Diamondback Rattlesnake Skewer
「ダイヤガラガラヘビの串焼き」

Gooey Duck flambe u
「ミル貝のフランベ」

Tete de Veau
「子牛の頭」

Bayou Alligator Tail
「入り江のアリゲーターの尾」

Boiled Camel's Feet
「ゆでたラクダの足」

Haggis
「ハギス」(羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でた料理)

Ugali Paste & Ambuyat with peanut sauce
「ピーナッツソースとウガリペースト&アンブヤット」

Green Peas and Termite eggs
「グリーンピースとシロアリの卵」

Stewed Tomatoes
「煮込みトマト」

Locusts in Chocolate Cream
「イナゴ入りチョコレートクリーム」

Frog ala Peche
「カエルの桃包み」

halo halo
「ハロハロ(パフェ)」

Fire Ant pudding
「ファイヤーアントのプディング」

Mead
「蜂蜜酒」

Tea
「紅茶」

With Yak Butter glogg
「ヤクのバターグロッグ」


カリフスタワー
 ホテル・ハイタワーのラジャズ・プール・アンド・スパに隣接した五階建ての建物。このタワーにはサンルームやイスラム調の豪華なスイートルームがある。
 外から見える屋根の銃眼は1878年にハリソン・ハイタワー三世がアラビア探検で手に入れたもの。


キブワナ・キジャンジ
 キジャンジの息子。キジャンジが別の部族に殺されてからジャングルに逃げ、海岸沿いの村から船でニューヨークに渡った。その2年後にS.S.コロンビア号の石炭供給者として雇われた。
 ニューヨーク・グローブ通信1912年9月20日号にシリキ・ウトゥンドゥと呼ばれる呪いの偶像に関する彼のインタヴューが掲載されている。


キジャンジ
 1899年当時のムトゥンドゥ族の首長。待合室に飾られているコンゴ遠征のときの写真にハイタワー三世とシリキ・ウトゥンドゥと一緒に写っている。その後別の部族に殺された。
 なお『キジャンジ』とは苗字である。


ギルバート・ミッチェル
 ハリソン・ハイタワー三世の最後の記者会見に出席した国際会報配信エクスプレス・サービスの記者。


グレートタワー
 ホテル・ハイタワーで一番高い建物。12階から14階はアフリカ風の装飾が施されたハリソン・ハイタワー三世の私室と豪華なスイートルームになっている。


コーネリアス・エンディコット三世
 1837年生まれ。ハリソン・ハイタワー三世とは祖父の代からのライバルにして世界でもっとも成功した実業家の一人。ベアトリス・ローズ・エンディコットの父親。セオドア・ルーズヴェルト大統領と親しかった。
 10歳のときにイギリスのスノッティングトン校に送られたが、ハリソン・ハイタワー三世の冷酷極まりない嫌がらせによって酷い目に逢う。これが彼との長い確執の始まりである。後に父の会社を継いで事業を拡大し、U.S.スチームシップカンパニーに社名を変更。
 ハイタワー三世の失踪に彼が関わっているのではないかという嫌疑をかけられた。
 ホテル・ハイタワーを解体し、自分の名前を冠したビルを立てようと計画するも、実の娘であるベアトリスに妨害された。


国際会報配信エクスプレス・サービス
 ハリソン・ハイタワー三世が持っていた新聞社。


シリキ・ウトゥンドゥ
 1899年7月にハリソン・ハイタワー三世がコンゴ遠征で略奪した呪いの偶像。スワヒリ語で『災いを信じよ』の意。攻撃しようとする者に恐ろしい呪いをかけるとされている。古代の呪術師シリキの霊が宿っているとされる。
 これを持つ者はこれを恐れなければならず、また密閉された場所にしまうことと木製であるため火に近づけることは絶対にしてはならない。なお呪いそのものを信じていなくとも、畏敬の念を持っていればこれが害を為すことはない。これをひたすら崇拝し、恐れているならば逆に守り神として大いなる繁栄をもたらす。
 部族から部族に移動する呪われた偶像で、最初は幸運を運んでくるが、最後には災難が起こり、ひどい場合には部族全体が地上から消滅する。
 古代の呪術師の遺骨の一部が隠されているとされ、魔力を引き出すために釘と金属片が打ち付けられている。これに呪いの力が宿ったとき、その目が緑色に光る。そのため部族の者はこれを『緑のもの』と呼び、偶像の目に気をつけろと語っていた。
 1899年現在、作られてから推定で300年が経過している。ただし偶像は段階を経て作られており、台座や武器は後の時代に付け加えられたものと思われる。
 ハイタワー三世が当時これを所有していたムトゥンドゥ族のキジャンジに光り輝くビーズと小さなナイフ、次いで自分の杖との交換を申し出るが拒絶され、略奪した。これは偶像の所有者が自発的に手放そうとしてはいけないためである。
 ハイタワー三世の失踪後もホテル・ハイタワーのあちこちで目撃されているが、基本的に置かれているのはハイタワー三世の書斎。
 以下にこれに関する掟を列挙する。
 ・偶像を敬うこと。
 ・火を近づけない。
 ・包まない。
 ・埋葬したり小さな建物の中に置いたりしない。
 ・常に屋外に置き、雨を避け、決して完全に囲ってはならない。
 ・偶像を置き去りにしたり、捨てたり、人にあげたりしてはならない。


スノッティングトン校
 ハリソン・ハイタワー三世とコーネリアス・エンディコット三世が通ったイギリスの学校。ハイタワー三世は度重なるエンディコット三世への嫌がらせによって退学処分となった。


スメルディング家
 ハリソン・ハイタワー三世の執事であったスメルディングと同一人物と見られるアーチボルト・スメルディングの家。軍人の家系で、脱走者を恥とした父がアーチボルトを勘当して死亡として扱った。


セイリングデイ・ブッフェ
 この左端にU.S.スチームシップ・カンパニーのオフィスがある。
 普段は貨物ターミナルとして使われているが、現在はS.S.コロンビア号の処女航海の祝賀会が開かれており、世界各国の料理やアルコールがブッフェスタイルで提供されている。
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セオドア・ルーズヴェルト
 アメリカ合衆国第26代大統領。コーネリアス・エンディコット三世とは個人的に親しく、エンディコット三世のS.S.コロンビア号には彼にちなんだテディ・ルーズヴェルト・ラウンジがある。


大邸宅
 ホテル・ハイタワーのロビーがある建物。もともとはハイタワー家の邸宅で、それを改装してメインエントランスとした。
 館内にはロビーやハリソン・ハイタワー三世の書斎であるパークプレイスの竜のほか、オリンピック・レストランやファラオ探検家クラブがある。


太陽の庭園
 ホテル・ハイタワーにある8階建てのインディアンタワーの屋上にある庭園。1899年の大爆発で大きな被害を受け、現在も朽ち果てたままになっている。


ダブルエイチ・ピリオディカル社
 ハリソン・ハイタワー三世が自らの冒険物語を出版していた会社。ダブルエイチ(HH)とはハリソン・ハイタワー三世のイニシャルである。
 ハイタワー三世は1879年から冒険雑誌を出版するようになり、自分をヒーロー化した物語をイラストつきで掲載していた。


タワー・オブ・テラー
 恐怖のホテル。閉鎖されたホテル・ハイタワーの通称。
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タワー・オブ・テラー・メモラビリア
 ホテル・ハイタワーのラジャズ・プール・アンド・スパを改造して作られた土産物屋。ニューヨーク市保存協会によって復刻されたホテルキーや、ホテル・ハイタワーで使用されていたデザインのタオルなどが販売されていた。
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チェスター・ファリントン・ウールブール
 アーチボルト・スメルディングがハリソン・ハイタワー三世とともに冒険物語を執筆したときの偽名。


庭園
 ここではホテル・ハイタワーの向かって左側にある二つの庭園に付いて述べる。
 一つは反響の庭園(瞑想の庭園)で、世界各地から収集した女神や女王の像が合計9体飾られている。もとは紫陽花や石楠花などの花が咲き乱れる美しい庭園だった。
 もう一つはインドの庭園で、主にインドで収集した像が飾られている。シヴァの像や蛇の羽を持つ孔雀の噴水が置かれている。
 この二つの庭園に飾られている像について以下に簡単に列挙する。
 カーリーを思わせる古代カンボジアの女神像…1975年に入手。
 象戦争の浅浮彫り…1875年に入手。
 女の頭と獣の体を持つヴェネツィアの像…1879年に入手。
 竜を抱える女神像…1879年に入手。
 頭部が失われた古代ギリシアの女神像…1882年に入手。
 脚のみが残る古代ローマの裸像…1882年に入手。
 アステカの女神像…1883年に入手。
 インドの川の女神の彫像…1884年に入手。
 バリ島の彫像…1884年に入手。
 モザイク風の蛇の羽を持つ孔雀の噴水…1884年に入手。
 クレオパトラあるいは女神の像…1887年のエジプト遠征で入手。
 女の頭を持つスフィンクス…1888年のペルシア遠征で入手。


テディ・ルーズヴェルト・ラウンジ
 S.S.コロンビア号にあるラウンジ。コーネリアス・エンディコット三世と個人的に親しかった合衆国第26代大統領セオドア・ルーズヴェルトにちなんで名づけられた。
 Cデッキ(二階)にあり、サンドウィッチや前菜とともにアルコールも楽しめる。
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ニューヨーク・グローブ通信
 コーネリアス・エンディコット三世が経営した新聞社。前身は船舶業界紙ニューヨーク・シッピング・ガゼッター。マンフレッド・ストラングが勤務した。ブロードウェイ・ミュージックシアターの向って左端にある。
 エンディコット三世により、ハリソン・ハイタワー三世の汚い手口を暴くために使われた。


ニューヨーク・シッピング・ガゼッター
 ニューヨーク・グローブ通信社の前身となった船舶業界紙。


ニューヨーク市保存協会
 歴史的・芸術的価値がある古い建築物を保護する団体。ベアトリス・ローズ・エンディコットがアーチー(スメルディング)の助言を受けてホテル・ハイタワーを保存するために1912年6月に設立した。事務所はカールッチ・ビルの三階。
 1912年9月4日にホテル・ハイタワーの見学ツアーを開始した。


ニューヨーク・デリ
 マンフレッド・ストラングがよく食事をしていたデリカテッセン。アメリカンウォーターフロントの劇場街にあり、ミュージカルの観客はもとよりミュージシャンや作曲家、役者なども訪れる。
 メニューはサンドウィッチやサラダ、ケーキ、アルコールなど。
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パークプレイスの竜
 ホテル・ハイタワーの大邸宅一階にあるハリソン・ハイタワー三世の書斎。
 パークプレイスの竜と名付けられたのはフランスのサクソニー大聖堂の影響を受けた中世の礼拝堂のような書斎に多くの竜のモティーフが使われているからである。またセント・アーデン大聖堂から逸失した玉座とよく似た椅子(実際には大聖堂から運び出された実物である)が使われており、その肘掛にあるボタンで隠し扉が現れる。装飾のため中世の霊廟から入手した柱を用いている。


ハイタワー三世真実の冒険物語
 ダブルエイチ・ピリオディカル社が刊行したハリソン・ハイタワー三世に関する雑誌。
 第一弾はチェスター・ファリントン・ウールブール著『暗黒を辿る旅 ムトゥンドゥ族からの敢然たる逃走』であった。


ハリソン・ハイタワー三世
 1835年、ニューヨーク生まれ。頭脳明晰だが横暴、傲慢、傍若無人、利己的で徹底した秘密主義者。世界的に有名な冒険家にして実業家。だが冒険家とはかなり遠慮した表現であり、実際は強欲な略奪者であった。さまざまな会社を買収していた。成長のためならばどんな汚い手口でもためらわずに実行する。
 12歳のときにイギリスのスノッディングトン校でコーネリアス・エンディコット三世を酷い目に逢わせ、以後長い確執が続いた。後にニューヨーク一の金持ちになり、世界中を旅して美術品を蒐集した。
 美術品としての価値があれば別だが、呪いや魔法を一切信じなかった。彼が収集した美術品には有名な作品はほとんどなく、彼独自の価値観によるものばかり集めていた。ドラゴンを好んだ。
 メソアメリカ遠征ではマヤ、インカ、アステカなどの古代文明を訪れた。ロストリバーデルタでは水晶髑髏の神殿や火と水の神の祭祀場(レイジング・スピリッツ)などを訪れた。オセアニアではイースター島からモアイ像まで持ち出している。
 1875年にアジア探検旅行を行う。日本を訪れて鎧や刀を入手。清国、朝鮮、蒙古、カンボジアも歴訪。カンボジアの女神像とホテル・ハイタワーのロビーにある暖炉はこの際にカンボジアの寺院から略奪したものである。
 1879年にルーマニア・ヨーロッパ探検旅行を行う。この際に巨大なガーゴイルと竜を抱える女神像、大聖堂の廃墟からケルト族の門を略奪する。ケルト族の門は書斎へ続くウェイティングルームの入り口に用いられている。なおケルト族の門については1892年の北海遠征にて略奪したものとの説もある。
 1880年に東アフリカ探検旅行を行う。この際に大量の仮面と衣類を入手している。
 1881年にイースター島、オセアニア探検旅行を行う。
 1882年にギリシャ、地中海探検旅行およびローマ、地中海探検旅行を行う。ローマ、地中海探検旅行にて略奪した古代ローマの神殿と思われるものの一部をゲスト用エレベーターの装飾に用いた。
 同年1月23日にホテル・ハイタワーを開業。開業式典ではパレードの最後に白い服と長い羽のついた探検帽を着て、アフリカゾウに乗って登場した。
 1883年にメソアメリカ探検旅行を行う。この時に水晶髑髏の神殿やレイジングスピリッツとして知られる火と水の神の祭祀場を訪れ、クリスタルスカルの一つを略奪したものと思われる。またアステカの女神像と骸骨神トラゾルテオトルの像も持ち帰っている。
 1884年にインド探検旅行を行う。
 1887年に王家の谷、エジプト探検旅行を行う。この探検旅行で小さなスフィンクス像と墓石を略奪し、ホテル・ハイタワーのフロントカウンターに用いている。
 1888年に再度のアジア探検旅行を行う。
 1892年に北海遠征を行い、アイルランド、スウェーデン、ノルウェー、スカンディナヴィアを訪れる。大聖堂の廃墟からケルト族の門を略奪する。このケルト族の門は1879年のルーマニア・ヨーロッパ遠征にて略奪したものとの説もある。
 1899年にアフリカ探検旅行・コンゴ川遠征を行う。この際にムトゥンドゥ族からシリキ・ウトゥンドゥと呼ばれる偶像を略奪する。
 1899年12月31日の正午に失踪前の最後の記者会見が行われ、そのときの模様は現在もプライベートオフィスに設置された蓄音機で聞くことができる。その後、深夜0時近くにシリキ・ウトゥンドゥを最上階の私室に飾るべくエレベーターに乗り込んだのだが、深夜0時丁度に停電と最上階で大爆発が起こり、エレベーターのケーブルが切れて落下。ハイタワー三世の絶叫とともに地下に激突して壊れたエレベーターからはシリキ・ウトゥンドゥだけが発見され、ハイタワー三世は忽然と消えてしまった。
 彼の失踪後、事業は急速に衰退してライバルであったエンディコット三世に吸収された。
 彼はどうやら肉体を失ってホテル・ハイタワーに囚われているらしく、興味本位でホテルに立ち入ったゲストたちに警告を与えている。書斎にある通じていないはずの電話からマンフレッド・ストラングに警告を与えたのも彼であろうと推測される。


ファラオ探検家クラブ
 ハリソン・ハイタワー三世が会長を勤めた会員制の秘密クラブ。ニューヨーク市内の政治家や富豪、有力者の多くが会員だったという。ホテル・ハイタワーの大邸宅二階にあった。


ブロードウェイ・ミュージックシアター
 迫力あるジャズ演奏を背景に本場のミュージシャンやタップダンサーたちがスタイリッシュなレビューショーを行う劇場。定員は約1500名。
 ニューヨーク・グローブ通信社の事務所がこの建物の中にある。
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ベアトリス・ローズ・エンディコット
 4月15日生まれ。ニューヨーク市保存協会会長。コーネリアス・エンディコット三世の七人姉妹の末っ子で、奔放な性格。知的で聡明で強い女性。様々な婦人団体を手がける、いわゆる婦人活動家のようなもの。S.S.コロンビア号の内装の一部を手伝ったことがある。
 1897年2月2日(彼女が14歳のときである)にエンディコット三世を訪ねて自宅にやって来たマンフレッド・ストラングが落とした『ハイタワー三世 真実の冒険物語』という雑誌を拾い、それがきっかけとなってハイタワー三世に傾倒するようになる。
 1908年10月21日に公園でホテル・ハイタワーをスケッチしているときにアーチー(スメルディング)と出会う。
 1912年6月に父エンディコット三世には秘密裏に、ホテル・ハイタワーを保存するためアーチーの助言を容れてニューヨーク市保存協会を設立。
 彼女にとってハリソン・ハイタワー三世は英雄であり、いかに彼の人格的評価が下がろうともそれは変わらない。シリキ・ウトゥンドゥの呪いもハイタワー三世の失踪も信じておらず、呪いを信じホテルツアーに反対するストラングと対立した。
 1912年8月22日にストラングとともにホテル・ハイタワーを探検したが、彼女はまったく呪いを信じず、彼女を守っていたストラングの評価をころころと変え、ストラングの手でなんとか脱出したあともホテルツアーを実施する計画を変えることはなかった。


ホテルツアー
 ニューヨーク市保存協会主催のホテル・ハイタワー内部を見学するツアー。1912年9月4日に開始された。
 徒歩でロビーからウェイティングルーム、書斎、秘密倉庫を見学し、秘密倉庫からハイタワー三世の私室まで業務用の大型エレベーターで移動し、最後にタワー・オブ・テラー・メモラビリアから外に出るというもの。エレベーターに乗っているときに記念撮影が行われる。


ホテル・ハイタワー
 住所はニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン島パークプレイス1番地。もともとはハリソン・ハイタワー三世の大邸宅があったが、それを改築・大増築する形で建築された14階建ての高層ホテル。1892年1月23日開業。建築にあたって1886年にロシアの著名な建築家であるオスカー・キルノフスキーに依頼されたが、意見が合わずに解雇された。実質的にハイタワー三世が主導権を握っていた。
 建築と維持には莫大な費用がかかったが、その大部分は都市の税金でまかなわれており、ハイタワー三世はさして自分の懐を痛めてはいなかった。
 このホテルはハイタワー三世の偉大さを誇示するために建設されたようで、『美・力・気品・卓越性』といった彼が象徴するものすべてを具現化しているらしい。建築様式は様々な様式の折衷。
 もともとハイタワー家の邸宅であった大邸宅、グレートタワー、カリフスタワー、インディアンタワー、庭園の五つの構造に分けられ、多くの名士や世界中からの旅行者を満足させるためのボールルーム、客室、庭園、スパなどを備える。玄関の礎石には『高くなればなるほど星に近づける』と刻まれている。向かって右脇には馬車寄せがあるが、現在はエンパイアチケット・カンパニーが受託したホテルツアーのチケット発券所として利用されている。ホテルの各所にドラゴンとカキのモティーフが使われている。
 グレートタワー12、13、14階にアフリカ調に装飾されたハイタワー三世の豪華な私室があった。ただしエレベーターでは12階までしか行けず、それより上には階段と小型リフトを使わなければならない。
 ロビーにある暖炉は1875年のアジア探検旅行の折にカンボジアの寺院から略奪したものであり、ハイタワー三世自らの肖像画を飾るために本来あった仏像を破壊したものである。
 大邸宅1階にある彼の書斎は『パークプレイスの竜』と呼ばれていた。これはフランスのサクソニー大聖堂の影響を受けた中世の礼拝堂のような書斎に多くの竜のモティーフが使われているからである。またセント・アーデン大聖堂から逸失した玉座とよく似た椅子が使われており、その肘掛にあるボタンで隠し扉が現れる。
 フロントデスクに置かれたリーフレットにはラジャズ・プール・アンド・スパのリーフレットが置かれている。
 インドを訪れたハイタワー三世のインスピレーションをもとに作られたラジャズ・プール・アンド・スパという温泉プールがあり、プールのほかにサウナ、理髪店、マッサージ室などがあったが、現在そこはタワー・オブ・テラー・メモラビリアという土産物屋になっている。なおその飛び込み台には黄金の象が二体置かれている。
 オリンピック・レストランというレストランがフロントデスクの右側に設置されており、メニューはその入口横に置かれている。
 ロビーの壁面には10枚の壁画が飾られており、それには1875年から1888年までに行った冒険の絵が描かれている(1882年の地中海探検旅行、冬の月夜に駆けるそり、1887年のエジプト王家の墓、イースター島からモアイ像を運び出すところなど)。ただし内容はかなり美化されている。なお日本を描いたものもある。
 ウェイティングルームにはハイタワー三世が世界中で撮影した記念写真が飾られている。
 地下の秘密倉庫に、太陽神アモン、金の玉座、生産の神オシリス、ラムセス二世、ワニの頭のソベク、鳥の頭のホルス、ジャッカルの頭のアヌビス、人の姿のトトメス三世の像がハイタワー三世最大のコレクションであるファラオの像の周りに置かれている。なお上を見上げるとタマスの頭が太い鎖で繋がれている。
 メソアメリカで手に入れた骸骨神トラゾルテオトルの像が置かれているが、これはスライドするようになっており、その裏にはスメルディングの部屋につながるはしごが隠されている。
 この大きな保管室を囲むように六つのコレクション・ルームがある。仮面の部屋(TOUR A)には1880年の東アフリカ遠征で手に入れた大量の仮面と衣料が保管されている。武器の部屋(TOUR B)には大量の武器が保管されている。絵画の部屋(TOUR C)には西洋画を中心とした絵が保管されており、中でも最大のものは中世の騎士の肖像画で、この裏には何かが隠されている。織物の部屋(TOUR D)には大量のタペストリーが保管されているが、湿気のせいで台無しになっている。
 また地下倉庫(地下三階)は地下道でニューヨークの港とつながっており、ハイタワー三世は水路で盗品を搬入していた。ただし現在は浸水しているため通ることはできない。
 秘密倉庫の隠しはしごから繋がっているスメルディングの隠し部屋には絶叫するハイタワー三世のスケッチ、スメルディングが17歳のときのベアトリス・ローズ・エンディコットを描いた絵、ハイタワー三世の肖像画、ハイタワー三世に関する新聞記事のスクラップ、アーチーの衣装などがあった。
 このホテルには様々な略奪品が装飾として使用されており、以下に簡単に列挙する。
 エントランスを入ってすぐの右側の暖炉:1875年のカンボジア遠征の際に小さな寺院の正面を解体して持ち帰り、暖炉の外枠に使用した。なおこのときに恐るべき拷問を受け、ハイタワー三世の髪が残らず白くなったという。
 1階のプライベートオフィスの待合室:ケルト民族の門……1892年の北海遠征でアイルランド、スウェーデン、ノルウェー、スカンディナヴィアを訪れて手に入れた。
 アトランティス・ボールルーム:ポンペイで発見された壁画。
 ロビーにあるフロントデスク:王家の墓の入口部分の装飾……1887年のエジプト遠征で手に入れた。この際に入口を爆破して多数の宝物を盗み出したが、これは秘密倉庫に保管されている。
 庭園にも様々な地域から略奪してきた偶像が置かれており、以下に簡単に列挙する。
 インドの庭園:シヴァの像や蛇の羽を持つ孔雀の像が置かれている。
 瞑想の庭園:世界各国の女神や女王の像が合計9体飾られている。ここに置かれているクレオパトラの象は1887年のエジプト遠征で手に入れた。あるいは1888年のペルシア遠征で手に入れた女の頭を持つスフィンクスもここか。もとは紫陽花や石楠花などの花が咲き乱れる美しい庭園だった。

 1899年12月31日のコンゴ遠征帰還記念パーティ兼ニューイヤーパーティーの最中に最上階で大爆発が起こり、ケーブルが切れたエレベーターが落下。同時に停電が起こり、ハイタワー三世が失踪。ハイタワー三世の失踪後ゲストたちは我先にホテルから逃げ出し、その後は荷物を取りに戻ることも許されずニューヨーク市消防署によって原因がわかるまでホテルは閉鎖された。後にホテル・ハイタワーは『タワー・オブ・テラー(恐怖のホテル)』と呼ばれるようになる。
 コーネリアス・エンディコット三世が購入し、取り壊して跡地に自分の名前を冠したホテルを建てる計画を持っていたが、実の娘であるベアトリス・ローズ・エンディコットに妨害された。なおその頃には土地権利書が複数存在し、どれが本物かわからない状態だった。


マクブルーム・ビル
 ここのサロンで1912年7月28日にマンフレッド・ストラングがベアトリス・ローズ・エンディコットにインタビューを行った。


マンフレッド・ストラング
 ニューヨーク・グローブ通信の記者。よくニューヨーク・デリで食事をしていた。ホテル・ハイタワーが呪われていると信じており、ベアトリス・ローズ・エンディコットと対立する。ベアトリスが14歳のときにコーネリアス・エンディコット三世の自宅で彼女と会ったことがある。
 エンディコット三世の命を受けてハリソン・ハイタワー三世を追う。ハイタワー三世の失踪後もその謎を追っている。
 1899年12月31日の正午に行われたハイタワー三世の最後の記者会見ではシリキ・ウトゥンドゥについて質問をしすぎて退場させられた。しかしコンゴからの帰還記念パーティーのウェイターに変装して再びホテルに侵入し、スメルディングとともにハイタワー三世の失踪を確認する。
 ハイタワー三世の失踪後に一度解雇されたが、再びニューヨーク・グローブ通信に勤務した。
 1912年8月22日にベアトリスとともにホテル・ハイタワーを探検するが、呪いをまったく信じないベアトリスを常に守り、最後はハイタワー三世の私室に現れたシリキ・ウトゥンドゥから命からがら逃れた。そのときベアトリスによる彼の評価はころころと変わったが、それもむべなるかな、女性を守る紳士的な面を持ち合わせていながら、ホテル・ハイタワーの様々な点から半ば強引にハイタワー三世をあてこすっていたのである。


ムトゥンドゥ
 ハリソン・ハイタワー三世の前にシリキ・ウトゥンドゥを所有していたコンゴ川流域の部族。シリキ・ウトゥンドゥの戒律を厳格に守っていたため、火を使用しなかった。
 ハイタワー三世がシリキ・ウトゥンドゥを譲ってくれと依頼したが取り合わず、結局武力をもって略奪された。だがこれは『手放そうとしてはならない』というシリキ・ウトゥンドゥの戒律のためであり、略奪させるために本気で戦ったわけではなかった。
 シリキ・ウトゥンドゥを奪われたあと、他の部族に襲撃されて滅んだ。


U.S.スチームシップ・カンパニー
 コーネリアス・エンディコット三世が経営する会社。現在セイリングデイ・ブッフェとなっている貨物ターミナルの左端にオフィスがある。
 S.S.コロンビア号、S.S.モノンガヒラ号、S.S.フーサトニック号の三隻の豪華客船を所有している。かつてはS.S.コロンビア号の姉妹船であるS.S.ガルガンチュア号も所有していたが、1888年冬の処女航海でサンディ岬沖に沈没している。


ラジャズ・プール・アンド・スパ
 ホテル・ハイタワーのカリフスタワーに隣接する入浴施設。スパ、温水プール、マッサージ室が備えられていた。美しいタイルとインド出身の職人に描かせた壁画で飾られている。なお、四枚の壁画はハリソン・ハイタワー三世を馬鹿馬鹿しいまでに神格化して描かれている。
 現在はプール部分が板で塞がれ、ホテルツアーの土産物売り場として改装されている。


ロバート・ネイピア
 サー・ロバート・ネイピア将軍。アーチボルト・スメルディング伍長が所属していたイギリス軍の指揮官。彼のアビシニア遠征にはハリソン・ハイタワー三世も同行した。

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